№1457 鬱治療の一環として

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隠れオタクの身としては
誰かが共感してくれてるんだなぁ
良い事も悪い事も全て必要なプロセス

 この3月30日をもってまる3年が
経過しました。4年目に突入です。

 最初は「鬱」の治療の一環として
スタートしました。先生にも勧められたし、
前年に、うちの電話が光に変わっていたことも
要因としては大きかったし、
NTTがニフティのネット接続まで一ヶ月
かかるといわれて、おとなしく待っていても、
なしのつぶてで、嫌々ながら(当時は
人としゃべるのも苦痛だった)電話してみたら、
契約したらすぐにネットが使えると言うではないか!

 じゃ、なんでわざわざ書いて送った手続きを
一切無視するんだ、ニフティ。説明不足も
いいとこだぞ、NTT!

 まあ、おかげで、光にしてから3ヶ月の間、
ひたすらパソコンをワープロ代わりにして、
原稿を書きためていった。
それが今に至るまで、私のスタイルになっている。
ココログを選んだのも「予約投稿」があったから。
これが、私のスタイルと見事合致した。

 最も、後になってこんなに不具合が多いとは
夢にも思わなかったが...

 映画日記は、その「別口」で、ただ鬱の毎日を
書いても変化がないので、見た映画、日時、
みたときの体調、出来事などを添えることで
「記録」がわりにしたのが最初。

 それが、鬱がひどくなって、更新が滞りはじめたときに
役に立った。今では拙ブログの中心的存在である。
最も、かなりの時間を映画に費やしているため、
地上波のほかの番組が見られなくなってしまったが...

 そして、忘れてはいけないのが、
「イラスト」。これもブログを飾るつもりで
約6年ぶりに復活させたものだが、
最初は、もう全然なっていなくて、
腕はさびまくり。情けなかった。

 途中、なんとかパソコンで描くところまで
できたのに、肝心のパソコンが長期故障に
至り、結局やり方を全部忘れて、アナログに
逆戻り。
 
 ところがこの春みた「ヤマトよ永遠に」で、
作画監督をつとめられていた「金田伊功」氏の
あまりの作画の楽しさに、ついつい導火線に
火がついてしまい、3年過ぎてから、ようやくイラスト
ブログとしての体をなし始めていた。

 偶然にも、不眠症に悩んでいて、おきていても
することがなくて、仕方なく取り組みはじめたというのもあるが、
絵を描く楽しさに目覚めたというのは大きかった。

 最も、手間は今までの倍以上になってしまったが...

 とにかく、今まで「続けてきた」こと。
これがすべて。私個人の力ではなく、
みてくださっているすべての皆さんのおかげ。

 ありがたいことです。
これからも、綱渡りでブログ続けて参りますが、
どうぞ、よろしくお願いします。

Photo_4

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№1174 見えていなかった将来

コネタマ参加中: 子どもの頃に“将来なりたかったもの”は何? 

 はっきり覚えているのは「サラリーマン」と書いていた
事。好きな絵で身を立てることは父母ともに
反対していたし、当時終身雇用が約束されていた
日本では、一番それが無難だったのだ。
なにより、食えなくなると言うのが私にとっては
いやだった。

 こころのどこかで「それでもいつかは...」
というもやもやを残しながら、自分の学力に
あった学校ばかりを選び、進学していった。
夢が遠くなっているなんて、これっぽっちも
思っていなかった。

 大学時代、今の大学に所属しながら
受験勉強をして他校に移籍しようと
考えていたやつがいた。
どう考えてもムリっぽかったし、
実際、彼は卒業までそれを成し遂げる
ことは出来なかった。

「ほーらみろ、できなかったじゃないか」
と心の中で嘲笑している自分。
だが、それは同時に自分に対しても
つばなす行為でもあったのだ。
気が付いていなかっただけで。

 最初の就職先はハードだった。
9時に帰ってから、それでもマンガを
描き続けていた。しかし、限られた
時間を克服することはいかんとも
し難かった。
 30前にして、限界を感じた私は
ペンと紙をおいた。
事実上の敗北宣言である。

 ところがおもしろいもので、
鬱になって、ブログを描き始めて、
飾り付けの意味で、十数年ぶりに
筆を執ったら、思いの外、ご好評を
いただくことが出来た。
お金が発生しなくても人に見てもらえた。
喜んでもらえた。
 これは大きかった。
私にとってはブログ作りが大きな転換点
になったのだ。

 この先どうなるかはわからないけど、
絵を描くモチベーションだけは出来た。
あとはムリせず少しずつ描いていくだけだ。

...といいつつ、今年2枚しか描いていないけど(滝汗)

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№237 プロレスとの再会

  私の中には祖母から影響を
受けたものが少なくない。
それはプロレス、そしてラジオ
が双璧だろうか。
 当時小学校高学年で狭い
家の中で私は祖母の隣に
寝ていた。ラジオはまだ
持っていない頃で、
本当は寝る前の祖母の
楽しみだったものを無理矢理
数分間だけ奪い取って聞いて
いたものがあった。
それが「欽ドン」。

 当時はテレビ版とラジオ版が
あって、ラジオがテレビに進出
したと話題になった番組だった。
スタートはテレビからだった
のだけれど、ネタ的にもやや
ラジオの方が切れがよくて、
好きになっていった。
第一毎日聞けるというのがいい。
当時は確か月~金帯の
夜9時半からだったと思う。
とにかく楽しかった想い出
しかない。最近になってここの
リスナーから派生して、欽ちゃん
座付き作家になられた
パジャマ党の永井さんが
亡くなられたと聞いた。
「笑っていいとも」をはじめ、
斬新な番組を多く提供して
くれていただけに一時代の
終焉を感じずに入られない。
ご冥福をお祈りしたい。

 やがて「基礎英語」用に
買ってもらったはずのラジオ
が私の心の友となる。
これは以前もかいたこと
なので割愛したい。
 
  もう一つのプロレスについて
であるが、これも前にちらっと
書いた通り、何げに見ていた
時期はあったのである。
それが見なくなってしまった
のは、やはり「猪木対アリ」
になってしまう。
当時「世紀の凡戦」と謳われた
それは後に見直してみると
緊迫感がびりびり伝わって
くる最強の名勝負だった。

 当時お昼と夜の二回放送
があって、私は昼の回を
見ていたのだが、この時期
の子供に目には退屈にしか
うつらない試合だった。

 「なんだ、プロレスなんて
こんなものか」とすっかりタカ
をくくってしまった私は、
それ以降チャンネルを
裏の「太陽にほえろ」に
あわせる様になってしまった。
これがまたテキサス刑事が
全盛の頃でジーパン刑事の
「殉職」は再放送で後々
知ることになる。

 まさかこの松田優作という方
が自分の先輩にあたるなんて
夢にも思っていなかった頃
の話である。

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№206 これから これから

  代表作「人類ネコ科」は
とにかく大学時代の
お気に入りの一つで、
よく友人にも貸していた。
隣の部屋の同級生が
いたく気に入っていて
「こりゃいつか自分で買うな」
と思っていたら、案の定3巻
(コミックス版最終巻)
は私より早く買っていた。
内心しめしめと思ったもの
だった。

 当時は作者とまた
聞いていたラジオ番組が
全く同じでその辺にも
親近感があった。
中島みゆきさんと
谷山浩子さんのやりとり
なんて今の人には
絶対わかるまい(笑) 

 他にも熱烈な新日本ファン
(初代タイガー全盛~藤波対
長州名勝負数え歌時代
だった)と思われる書き込み
などが見られ、作中に
サソリ固めが登場する辺り
にプロレス熱の高さも
伺えて好きだった。
後の天龍の活躍ぶりなどは
もっと長く見ていて
いただきたかったと
プロレスファン的にも
残念でならない。

 そんなみず谷なおき
さんの作品はご本人の
こだわりと頑なな姿勢
によって?作品数は
恐ろしく少ない。
コンプリートするのにも
それほど場所をとらない
のはありがたいのだが、
全部あったはずの
単行本が一冊どうしても
見つからない。
いつの日かお金を貯めて
「ブラッディエンジェルズ」
一巻を買い直そうとは
思っている。

高いんだろうなあ...
きっと。 

  今は長編作家も増えてしまい、
こうした細部に渡るこだわり
を見せる作家さんは少なく
なってしまった。
「ブラッディエンジェルズ」
単行本二巻67ページには
作者とゆうきまさみさん作
「究極超人あ~る」の
主人公あ~るくんとが
対面で白飯を食べる光景
が描かれている。連載誌
が週刊と月刊という違い
はあったとしても、あまり
同時期連載のライバルを
持ち上げたりすることは
ないと思うのだが、嫉妬
という感情以上に漫画
への愛情が上回っていて、
なんかとてもほのぼの
とする一ページであった
と今でも心が和んでしまう。
もう亡くなられてずいぶん
になるけれど、私の中からは
みず谷さんの存在が
消えてなくなることはない。

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№190 大阪に憧れた男とポリスマン

  前回まで書いていた
「作画グループ」は大阪が
起点となって出発したらしい。
私の生まれる前から存在
しているというのがまず
凄い話だが、そうでなくても
私と大阪との縁は深い。

 前にも書いた南海ファン
の従弟は大阪の人間。後に
近鉄ファンになった事で、
ますます距離の近さを
感じていた。更に後年気が
狂ったように大阪に行き
まくっていた時期もあった。

  まあ、後年の話題はまた
の機会に譲るとして、ここ
からは大阪との出会いから
語っていこう。
  はじめて大阪を意識した
のはやはり万博という事
になる。実は私は行っていない。
連れていってもらえ
なかったのだ。
当然行きたかったから
普段はあまり我が儘言わない
私だったが、連れていって
ほしい旨は訴えていたと
思う。
まあ当時の経緯なんかは
何も私が話さなくても
浦沢直樹さんの
「20世紀少年」とか、
傑作の誉れ高い
「クレヨンしんちゃん.
嵐を呼ぶモーレツ!
大人帝国の逆襲」に
詳しいのでそちらを
見ていただきたい。
いけたにしろ、いけ
なかったにしろ当時の
子供達の思いにそんな
に大差はなかったはず
なのである。

  万博公園にはじめて
行ったのは中学生くらい
の時だっただろうか。
当時明石に住んでいた
叔父に連れていって
もらったことがある。
普段は温厚でにこやかな
叔父が、たまたま入った
食堂の店員の態度が
悪かったのか、珍しく
怒ったことをよく覚えて
いる。

 また当時夢中だった車の
展示イベントをやっていた
のを思い出す。といっても
それはいわゆるスーパーカー
ではなく、警察ものの一大展示
イベントだった。そのほとんど
が個人所有であるという
それはいうまでもない、
ポリスマニアにして、
「シベリア超特急」の生みの親、
水野晴男閣下が主催する
ものだったのだ。

 当時は勿論晴男ちゃんが
「あんなひと」で「こんなひと」
(笑)だったなんて知る術もない。
ただイベントそのものの極めて
ストレート?な迫力に圧倒される
ばかりだった。
ただ今でも覚えているのは、
パンフの表紙ににこやかに
警察の制服を着た水野閣下が
でかでかと写っていたこと。
もっていればお宝なのに、
これも紛失してしまった。
無念!

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№185 中野小宇宙と星達

  滅多に書かないと言い
ながら最近しょっちゅう
書いている夢日記。
昨晩はこんな夢を....

 彼の名は中野小宇宙という。
小宇宙と書いてコスモスと
よませるらしい。性格は
おとなしくて誰とも口を
利かないけれど、こと宇宙
の話になると熱心にしゃべり
はじめた。こちらの都合は
お構いなしなので、だんだん
彼の話を聞く人も少なく
なっていった。

 噂では一部でいじめに
あっているらしい。時々
顔面をはらしたまま、
一人でかえる姿を目撃した
人がいるという。
 だが自分たちには何も
できなかった。せめて話を
聞いてあげられることくらい
しかできなかった。
 
  ある日の寝苦しい夜。
空には満天の星空が
浮かんでいた。ふと
気が付くと、車の排気音
らしきものが表から
聞こえてくる。二階の部屋
から窓を開けると、
そこには小宇宙がいた。

 「君は....乗せてあげるよ」

  声が小さくて聞き取れないが、
彼は手招きをしている。なぜか
怪しむ間もなく、いわれるまま
にバスに乗り込む。中には
クラスメートや先生達が何人
か乗っていた。みな空を
見上げたまんまで自分が
入ってきても素知らぬそぶり。

 なぜか必死になって
この集団の共通項を
見いだそうとするけど
思い出せない。

 そうこうしているうちに
頂上らしきところについた。
しばらくするとバスの頭上
から満天の星空が降り
始めた。あたり一面が
明るくなった。山の上から
見ているそれは巨大な
花火が地上を覆い尽くす
ようなとても綺麗な光景だった。

 「きれいだろ。この風景が
見せたかったんだ。
みんなが話を聞いてくれたから。
ありがとう。」

  声のする方向を見ると
中野小宇宙の姿とバスは
どこにもいなかった。空からは
変わらぬ大流星が町に
落ちていく。山をよけるように
して落ちていく。それはとても
綺麗な光景だったのだけれど、
自分たちがこの先どうして
いいのか、誰も口にできるもの
はいなかった。お礼を言われて
助けられたのに、誰もどうして
いいのかわからなくなって
しまっていた........

  という感じで珍しく文章に
できたので、こういうのも
ありかなと思って書いて
みました。いつもこういうの
ばかり見ている訳では
ないのですけどね。

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№181 衝撃のデビュー戦.アップ版

Photo  全身描いたみた
ものの、肝心のアップ
が写真で上手く
出せない。そこで
思い切って本編でアルバムでは
出せないものをなんとか出して
みようと思い立った。
あまりうまくいってないけど(笑)

 第一弾が「衝撃のデビュー戦」
去る6.17「ハッスルエイド」に
おけるTAJIRI対ザ.エスペランサ
の一戦。

 紆余曲折あってテレビ放送が
土壇場で中止になり、ほぞを
かんだ地方のファンの無念をも
筆に乗っけて描いてみました。
全身アップのみたい方はアルバム
迄どうぞ。

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№164 ロンリードラゴン

 「闘え!ドラゴン」「バーディー大作戦」
等でドラゴンを演じていたのは
倉田保昭氏である。
「帰ってきたドラゴン」では敵役を
演じていた、当時香港映画界きって
の日本人悪役スター。
しかし日本に帰ると一転ヒーロー
だった。

 さながら悪役レスラーが地元に
帰ると大声援で迎えられると言う
現象もこの事実あればこそより
リアルに受け入れられた
のかもしれない。

  更に主演作「闘え!ドラゴン」に
至っては当時系列局がなかった
東京12チャンネル系の番組にも
関わらず、こちらでは金曜夜七時
という破格の時間帯で放送されて
いたし、その後も何度となく再放送
もされた。いかにこのブームが
凄かったか、というは証明でもある。

  赤塚真人さん演じるところの
弟弟子との掛け合いがまた面白く、
アクションシーンとのコントラストも
絶妙だった。赤塚さんの飄々とした、
とぼけた味は今でも健在でたまに
テレビでお見かけするたびに
嬉しくなってしまう。
全く関連性はないけれど、
「アイアンキング」の主演二人
(浜田光雄&石橋正次両氏。
ちなみに石橋さんのご子息も芸能界
でご活躍だそうである。)もまた
いい味だしていて、好きだった。
それをオーバーラップさせていた節も
あるかなと今にして思ったりもする。

 「バーディー」の後番組、「Gメン75」で
も初期の牽引者としてシリーズを
盛り上げていた。倉田さんなくして
香港シリーズは存在し得なかっただろう。
 私にとっては「ドラゴン」とは、ブルース
リーは別にしても、藤波辰巳でも
なければ、リッキー.スティンボート
でもない。

 倉田保昭こそがドラゴンだったのだ。

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№79 サテライザーはまっしぐら

  所用で週二回は市内中心部へ
出かけていく。ただ用事をすます
だけでは味気ないので
潤いを求めて写真を撮るよう
にしていたら、思いの外
はまってしまって、
気が付いたら当ブログの
アルバムに入りきれない?
ほど枚数がたまってしまった。

 元々の目的は、ブログに
出てくる場所の現在の姿を
撮ってみたいという気持ち
からだった。変わり果てて
悲しいという所もあれば、
よくぞ今まで変わらずに
という場所もある。そこに
出かけていくことは記憶の
中だけで旅する自分が、
現実の中で今と昔を
同時体験する貴重なひととき
にもなってしまっている。
近場でありながらそれはまた
旅なのである。
 さながらそれは心の中に走る
銀河鉄道に乗っているかの如く...
などとちょっと格好つけて
思ってみたりもする。

 さて終わったはずのものには
「続き」があった。
さすがに二度もやられるとこちらの
熱も醒めてくる。そんな「さよなら999」
も見には行ったが当然前作の
ような熱はない。脚本も代わり、
音楽もハリウッド映画
の二番煎じのような楽曲、
更に海外アーティストによる
主題歌とことごとくつぼをはずし
まくった印象しか残らなかった。

 やがてブームもかげりか、
新作でもヒット作はでなくなる。
あきれたものでヤマト以前に
すさまじい肩入れをしていた
はずのロボットものなのに
「ダンガードA」がでてきても
当時は小馬鹿にして
しまう有様。「スタージンガー」
なんてもってのほかという
思いもあって、自分の中
でのブームの凋落には
歯止めはかからなかった。

  後に見た「ダンガード」は
松本零士作品と言うより、
マジンガーからの流れを汲む
東映巨大ロボの系譜としてしか
見られなかった。永井豪作品を
数多く手がけ、こうした作品に
女性ファンを定着させた
功労者である荒木プロの作画
(聖闘士星矢でおなじみ)と、
ドラマティックな演出陣のケレン見
が合体して独特の相乗効果を生み
だしていたし、売りになっていた
スポ根路線はむしろ梶原テイスト。
アニメ版では正直原作は名義貸し
にすぎないという印象を受けた
ものだった。

 ではなぜこれを見ようと思ったか
というと美形キャラに惹かれたわけ
ではなく、当時アニメーターとして
一世を風靡していた実力派.金田伊功さん
の絵と動きに魅了されたからだった。
ダイナミックな線と迫力ある動きは
日本のアニメ技術に一つの革命を
もたらしたといっていい。
その腕のさえは松本零士作品では
数多く見ることができる。
「ダンガードA」もそのひとつ
だったのである。

 また原作もだいぶ後で読んで見た。
これはこれでいい味を出してはいた。
とはいえ今思うと、もうちょっと
リアルタイムでちゃんと見ておけば
よかったなと思う。
 物事を柔軟に見る目というのは
案外年をとらないと養われてこない
のかもしれない。

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№41 多元前奏曲

 そしてその機会は
ほどなくしてやってきた。
場所は郊外のホテル駐車場。
市内では件のスポーティー
カーを生で見られる、
唯一にして最大のオープン
会場だった。

 新車の展示会をよそ様の
庭先を借り切って
大々的にやるというのも、
すごい話だったが、また
きわめて珍しかった。

 後に車業界に就職して
からも屋外での展示会や
よそのスペースを借り
切ったりの経験はある
のだけど、ここまで大がかり
な展開は経験していなかった
ので、メーカー側の力の
入れようが伺える出来事
だったと思う。

 ここで以前のサイクリング
経験が生きた。
目的地まではすでに走破
済み。あの時の経験
がここで自信になった。
とはいえなかなか道のりは
厳しい。長い距離を
ひたすらこいでやっとの
思いでたどり着いたものの、
いざ着いてみると、
さすがに自分が場違いな
ところに来てしまったこと
を痛感させられてしまった。

 そりゃそうだ。
来場者は大人ばっかり。
家族が買うような車じゃ
ないから子供もいやしない。
そこに何の目的だか
知らないが中坊が一人
汗だくで自転車乗ってきて
いるのだ。
変な目で見られて当然。

 しばらく遠巻きに試乗の
様子を見ていたが、やがて
つまらなくなって帰る事にした。

 パンフレットかなんか
もらえばよかったかも
しれないが、さすがに言い出す
勇気もなかった。邪険にされ
なかっただけめっけもん
だったともいえばそうかも
しれない。

 意気揚々と出かけた
最初の勢いはどこへやら、
しぼんだ風船のようになった
気持ちを引きずった帰り道
の足取りはとても軽やかと
は言い難いものであった。

  ちなみに、この車とは
初代ホンダプレリュードのこと。
今思うとそれほどスポーティー
な感じはしなかったんだけど、
当時の車雑誌のグラビアで見た、
特に横からのスタイルに
中学生の私はしびれていた。
 後に就職して色々な車に
乗ったけど、残念ながら
プレリュードにだけは
のっていない。
内緒でトヨタ2000GTの
運転席に座ったこと
がある(操縦はしていない)
私だが、これはちょっと
心残りであったりもする。

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